第3章 新郷村に眠る異国

2025年12月10日

青森県の最南端、新郷村。

かつては戸来(へらい)村と呼ばれたこの地は、山に抱かれ、田畑に守られた小さな盆地にある。

人口は二千人あまり。

春は田植え、夏は祭り、秋には稲刈り、冬は静寂。日本のどこにでもある"のどかな山村"に見えた――少なくとも、旅人の目にはそう映るだろう。だが、こむぎは知っていた。

この村には、歴史の教科書には書かれていない、けれど――"世界の常識"を揺るがすような、ひとつの伝説が残っているということを。

「イエス・キリストの墓がある」


KLX250のエンジンを切ると、辺りは急に静まり返った。ミラー越しに見えるのは、日差しを受けて白く輝く田んぼと、その先に続く林道。山の稜線がぼんやりと霞んでいて、まるで時代の輪郭までもが曖昧になっていくようだった。

こむぎは小さく頭を振った。

ぱらり、と額から飛んだ汗が、細かい塵を舞わせる。まだ残暑が残る9月初旬。だが、山間の太陽は侮れない。

「ふぅ……やっと着いた」

こむぎは胸元から取り出したメモ帳を開いた。お父さんの卒論から、こつこつと書き写してきた内容が、細かい文字でびっしりと詰まっている。


《新郷村のキリスト伝説》

昭和10年、竹内文書をもとに「キリストの墓が青森にある」との説が登場

かつての村名「戸来(ヘライ)」は「ヘブライ(Hebrew)」に由来すると主張される

村に伝わる不思議な民謡「ナニャドヤラ」は、古代ヘブライ語に酷似しているという説

村の沢口家には、キリストの末裔であるという言い伝えがある

墓は二つ――イエスと、その弟イスキリのもの


「お父さん……これを本気で信じてたの?」

思わずこむぎはつぶやいた。だが、同時に感じていた。

真偽の問題じゃない。ここには、たしかに"なにか"がある。そう思わせるものが、この土地の空気にはある。そんな気がしたのだ。

道の先には、一本の小さな案内板が立っていた。

『キリストの里公園→500m』

周囲に人の気配はなかった。稲穂の先に蜻蛉がとまり、遠くではカラスがゆっくりと旋回している。林の向こうに、木の柵で囲まれた丘が見えていた。

ここに、本当に……?

こむぎはKLX250のサイドスタンドを立てて歩き出した。地面はややぬかるんでおり、小さな足が草を分けるたびに露が跳ねる。森の入口に差し掛かると空気が一段ひんやりとして蝉の声が遠ざかった。

やがて木立の間にそれは現れた。

二つの塚。

それぞれに、木製の質素な看板が立てられていた。

「キリストの墓」

「イスキリの墓」

こむぎは、ごくりと喉を鳴らした。見間違いではなかった。人の手で盛られた土の丘。供花はないが、どこか清浄な空気が漂っている。

田んぼの中に、麦わら帽子をかぶった老人が立っていた。こむぎは、一歩近づいて声をかけた。

「こんにちは。あの……ここ、本当にキリストのお墓なんですか?」

老人は、ゆっくりと振り向いた。小さなこむぎの姿を認めると、驚く様子もなく、にこりと笑った。

「おや……小さな旅人さんだね。まるで伝説の使いかと思ったよ」

「こむぎです。札幌から来ました。お父さんの卒論を読んで、どうしても確かめたくて……」

「そうかいそうかい。それはよく来たな。……本当にキリストの墓かどうか、それは誰にもわからん。けれど、わしらは"そうだ"と思って、大事に守ってきたんだ」

「守ってきた……」

「そう。この塚は、わしのじいさんの、そのまたじいさんの代から"聖なる場所"として伝わっておる。毎年、春と秋には花を手向けてな。誰に教えられたわけでもなく自然とそうなった」

こむぎは、塚の前でそっと手を合わせた。

心の中に、何かが静かに降りてきたような気がした。理屈ではない。けれど、ここには"何かを記憶した土"のような無言の歴史の重みがあった。

老人は東屋のベンチに腰を下ろし、話し始めた。

「この村の昔の名前は"戸来"じゃが、"ヘライ"とも呼ばれとった。それが"ヘブライ"の訛りだという人もおる。あんたも聞いたことがあるかもしれん、"ナニャドヤラ"という歌がある」

「はい、聞いたことあります」

「ナニャドヤラ、ナニャドナサレノ……と始まる不思議な歌じゃ。意味は、村の誰にもわからん。けれど、昔の神主がこう言った。"この歌には、神の子を讃える言葉が隠されておる"とな」

こむぎは、おじいさんの姿がイエス様に見えてきた。

老人は、古びた手帳を取り出した。

ページには筆文字で"ナニャドヤラ"の歌詞が記され、その横には、びっしりと注釈が書かれている。

「この手帳は、わしの父が書いたもんだ。昔の坊さんに教わったらしい。"歌に込められた記憶は、音として残る"ってな」

こむぎは、手帳を静かに読んだ。

「ナニャ」=主、「ドヤラ」=讃えよ、「ナサレノ」=救い主の……。

一見無意味な響きが意味を取り戻すように読めてくる不思議。

「この地には、そうした"不思議な記憶"が点々と残っておる。……そこの裏山、墓の奥には、小さな神社があるんじゃ。もう誰も気にしとらんが、あんたのような者には見る価値があるかもしれん」

こむぎは礼を言って、塚の裏へ回った。

草が伸び放題で、獣道のような細い道が続いていた。

杉の根がせり上がり、熊笹が道を覆う。土は柔らかく、石が滑る。

その奥に、ぽつんと現れたのは――

神社だった。

半ば崩れ、苔に覆われている。それでも、どこか神聖な気配をまとっていた。こむぎはゆっくりと近づき、中を覗いた。中央に一体の像があった。

――それは

大きな目、くっきりとした鼻梁、巻き毛の人物像。

だが、どこか誇張されていて、遮光器土偶を思わせる不思議な造形だった。ただ、確実に"異国の顔"をしていた。

「これが……もしかして……」

像の目元を指先でなぞる。

冷たい石。だが、なぜか"温度"を感じた。

そのとき、風が吹いた。

「ナニャ……ド……ヤラ……」

どこかで誰かが歌っている。そう錯覚するほど、風の音が柔らかかった。

「もし……あなたが本当にここにいたのなら……」

こむぎは、像に向かって一礼した。

「あなたは、何を伝えたかったんですか?」

風が、木々を鳴らした。

こむぎは、何も答えが返ってこないことを知っていた。それでも、ここに立ったことで、確かに何かが"始まった"と感じた。

そして、バイクへと戻る途中、ふと振り返って呟いた。

「謎は、ここからだね」

神社の奥で何かが、風とともに静かに笑ったような気がした。


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