第7章 その旅館には誰かいる
2025年10月10日
南部藩の城下町として、静かに時を刻む岩手県二戸市。古い町並みには、今なお武家屋敷の風情が色濃く残り、街路にはどこか懐かしさが漂っている。
そんな町の片隅、川沿いの細い道をこむぎはKLX250でゆっくりと進んだ。木立の緑が風に揺れ、陽の光が葉の間からこぼれ落ちる。エンジンの音が遠くの山に吸い込まれていくようだ。
やがて、古びた木造三階建ての旅館が姿を現した。外壁は風雨にさらされて黒ずみ、歴史を物語っている。だが、その佇まいには、どこか柔らかな温かみがあった。
旅館の名は「かねや旅館」。
一時は経営難に陥ったというが、「座敷童が出る宿」としてテレビで紹介されてから、静かながらも根強い人気を得ているという噂があった。
こむぎはバイクを停め、赤いバンダナを整えた。深呼吸をひとつ。緊張と期待が入り混じる。
「座敷童って……幽霊?妖怪?それとも守り神のような存在なのかな……」
グローブを外し、手首を回しながら、ゆっくりと玄関の木戸に手をかけた。
「カラン……カラン……」
風鈴がやさしく鳴る。軒下の暖簾がそよ風に揺れた。
「いらっしゃいませ」
着物姿の女将が静かに現れた。こむぎを見るなり、驚きはせずに、にこやかな笑みを浮かべた。
「お一人様ですね?旅慣れていらっしゃるようで。座敷童に会いに来たのかしら?」
「はい。せめて気配だけでも感じられたらと思って……」
女将はうなずき、柔らかな声で答えた。
「ふふ、あの子たちは気まぐれでね。でもとても純粋な存在。怖がらずに、心をまっすぐにして迎えてあげてくださいな」

こむぎは案内され、二階の角部屋へ通された。磨きこまれた欄間、年季の入った畳の香りが部屋いっぱいに広がっている。
障子の向こうに夕陽が透けて、橙色の光がふんわりと差し込んでいた。
ポシェットからメモ帳を取り出し、静かに開く。
《座敷童考察メモ》
岩手県南部から青森県にかけて伝わる精霊的な存在。
5〜7歳ほどの子どもの姿で目撃されることが多く、特に女児の形が多い。
「見た家は繁栄し、去ると衰退する」という福の神としての伝承が根強い。
足音や障子の開閉、菓子が突然なくなるなどの現象が報告されている。
人間の霊とも、山の神の化身とも言われることがある。
民俗学的には「家付き神」として分類される場合もある。
「見た家が栄えるのは、やっぱり"信じる心"を持った人がいるからなのかもしれない」
こむぎは窓を開けて外を眺めた。山々の稜線が紺碧の空に溶けてゆく。遠くからはフクロウの鳴き声が響き渡っていた。
夜のかねや旅館
夕食の膳には、不思議なことに「くるみ」と「イチジク」の小皿が添えられていた。
「あら、これ、先日リスさんからいただいたものなんですって。不思議ね。ちゃんと通じてたのかしら」
女将は茶目っ気たっぷりに笑いながら話した。こむぎは微笑み返すだけで言葉を返さなかった。
心のどこかで、すべてが繋がっている気がしていた。遮光器土偶、黒又山の伝説、そしてこのかねや旅館の不思議な気配……。
夜の帳が町を包み込む頃、こむぎは部屋の隅で静かに耳を澄ました。
畳をかすかに踏む足音。
「コツ、コツ……」
障子の向こうに、確かに誰かが立っている気配がした。
「……君、そこにいるの?」
返事はなかったが、温かな気配だけが確かにあった。
夢の訪問者
その夜、こむぎの夢には懐かしい子供の笑い声が満ちていた。
目が覚めると、枕元に小さな丸い石が一つ、そっと置かれていた。
畳には幼い手でなぞられたような文字が書かれている。
「気をつけて まっすぐ いってね」
文字は震えていて、まだ拙い子どもの筆跡だった。
朝、女将に礼を言うと、彼女は柔らかく微笑んだ。
「あの子は旅人が好きなの。特になにかを信じようとする人にはね」
こむぎは考えた。
座敷童は幽霊なのか? 妖怪なのか?
それとも……どちらでもあり、どちらでもないのかもしれない。
すべては、この地にかつて誰かがいたという証であり、
それに耳を傾ける者に託された役割なのかもしれない。
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