第10章 星降る田代峠
2025年09月05日
ブオン、とエンジンが低く唸り、やがて音は夕闇に溶けていった。
晩夏の田代峠。こむぎはカワサキKLX250を慎重に路肩へ寄せ、キーを切る。途端に、世界は別の顔を見せた。湿った土の匂い、苔むした岩肌から立ち上る冷気。それらが混ざり合い、胸の奥まで澄んだ空気が流れ込んでくる。
空は赤紫と群青が溶け合い、雲は遅く、風もまた遅い。まるでこの場所だけが、夜を迎える準備を静かに進めているようだった。
田代峠。山形と宮城の県境に位置し、地元では「越えてはならない時間がある」と囁かれる場所だ。かつて人馬が行き交った道は今や廃れ、倒木と落石に覆われている。それでも時折、理由もなくここを訪れる者がいる。そして、戻らない。
磁石は狂い、エンジンは止まり、通信は途絶える。
だが、それは表層にすぎない。こむぎは、この峠そのものが"何かを抱えている"と感じていた。
バイクを降り、胸元から小型のICレコーダーを取り出す。録音ボタンを押すと、微かな電子音が鳴った。
「……記録開始。地点、田代峠。標高約850メートル。気温19度、湿度72パーセント……」
言葉を続けようとして、こむぎは口を閉じた。
耳の奥で、別の音が鳴っていたからだ。風でも、鳥でもない。地を這うような低い共鳴。鼓膜ではなく、骨に直接触れてくるような"地の呼吸"。
「……音が、生きてる……」
そのとき、空の奥で青白い光が揺らめいた。星でも航空灯でもない。空間のひだが、ゆっくりと開いているかのような光だった。レコーダーが突然、甲高い警告音を発する。無意識に、こむぎは首に巻いたバンダナを握りしめた。
黒又山。キリストの墓。大湯環状列石。これまで訪れてきた"記録の場所"と同じ感覚。既視感ではない、既聴感。
ゴゴゴゴ……。
地鳴りが、粘性を帯びて続く。
再び山の頂から光が立ち上がった。今度は明らかに意志を持ち円を描く。その中心に現れたのは、楕円形の物体だった。金属とも石ともつかない表面は大気と同化し、そこに浮かぶ文様は――遮光器土偶の目と同じ渦。
「……器、か」
その瞬間、声が思考に直接流れ込む。
『知識を、継承する者へ』
視界が開き、映像が奔流のように押し寄せた。星々の誕生と死。地球が"記録媒体"として設計されてきた過程。東北各地の伝承地は、すべて観測装置だった。土偶は模倣であり、伝承は暗号だったのだ。
気づけば、こむぎは林道の入口に立っていた。夜。完全な静寂。手の中には、冷たい金属片が残されている。渦巻きの文様。それは確かな現実だった。
バイクにまたがり、キーを回す。KLX250は何事もなかったようにエンジンを震わせた。
「……旅は終わった。でも……」
こむぎは前を見据える。
「……物語は、これからだ」
走り出す背中を、星々が記憶のように見送っていた。
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