第9章 忘れられた地図、杉沢村

2025年10月01日

秋田県と青森県の県境にほど近い、深くて長い谷の奥。

そこには、今はもう地図にも記されていない村があった。

その名を「杉沢村」という。


その村は、長い間、失われた場所として語られてきた。

かつては人々が生活し、笑い、泣き、暮らしていたはずの集落。

しかし、ある日を境に村民たちは忽然と姿を消し、誰もその理由を知らない。

都市伝説とも言える話は数多い。

集団失踪、疫病の蔓延、政府による隠蔽と封鎖。

異界との交信、UFOの誘致地――


東北の旅人の間では「もしかすると本当に存在したのではないか」という囁きが広がり、それはいつしか"実在の可能性"を帯びて都市伝説の領域を超えた。


こむぎは色あせたコピーの地図を手にし、論文のページを繰り返し照らし合わせていた。未舗装の林道はどこまでも続き、空はどんよりとした鉛色の雲で覆われ、湿った霧がまとわりつくように漂っていた。


「……GPSも完全に圏外か」

KLX250のヘッドライトの明かりだけが頼りだ。

泥濘に足をとられそうになるブーツを引きずり、バイクのタイヤが滑り、何度もバランスを崩しそうになった。


心臓は早鐘のように高鳴り、緊張で身体が震えた。

周囲には何の気配もなく、ただ静寂が深く広がっている。

やがて、道は行き止まりになり、古びた木製の橋が目の前に姿を現した。

橋の先には、苔に覆われ朽ちかけた鳥居のようなものが立っていた。

「……これは……」

バイクを降りて足を踏み出すと、冷たい霧が頬を撫でる。

鳥居の柱には文字が彫られている。

苔むして判読は困難だったが、かすかに見える文字を読み取った。


「杉沢講」

"講"-かつての信仰集団の名残だろうか。

鳥居をくぐると、足元には苔むした石畳の道が伸びていた。

その両脇には、かつて人々が住んだ木造の家屋が朽ち果てて横たわっている。

人の気配はどこにもない。しかし、村は完全に消滅したのではなく、まるで時間の流れから切り離され、静かにここに残されているようだった。こむぎは一軒の家の前に立った。

風が吹き抜け、古びた家の軋む音が耳に届く。戸は外れており、中は漆黒の闇に包まれていた。

勇気を振り絞って一歩踏み入れる。

「ギィ……」

軋む床板の向こう、土間の奥に何かが立てかけられているのが見えた。

それは、複雑な図面のようであり、家系図のようにも見えた。細かな線がびっしりと書き込まれ、ページの最後の列には太く塗りつぶされた名前があった。


「タナカ」

こむぎの脳裏に、お父さんが書き残した論文の内容が鮮明に蘇る。


《杉沢村と失われた民》

村民全員が一夜にして忽然と姿を消したとされる

村に調査団が赴いたが、全員が精神異常を訴えて撤退した

「タナカ家」だけが最後まで村に残っていた

村の守護神が村人を"連れていった"という伝承もある


「……ここには、間違いなく"何か"が起きたんだ」

背筋に冷たいものが走った瞬間、屋根の上から何かがカタンと音を立てた。

思わず見上げるが、そこには誰もいない。

それでも、まるで誰かがじっとこちらを見ているかのような気配を感じた。

「……きみは、杉沢村の最後のこどもなのか?」

答えは返ってこない。

ふと小さな風がこむぎの足元に転がる何かを運んできた。

木製の手彫りのこけし。

表面には小さな文字が刻まれている。

「きえたのではない。うつったのでもない。ただ"ちがう時間"になっただけ」

"違う時間"――

こむぎは息をのんだ。

恐怖ではなく、深い悲しみと祈りのような感情が胸に迫った。

「こむぎは、きみたちのことをきちんと記録する。忘れられた物語としてではなく、生きていた"真実"として」

こむぎはそっとこけしを元の場所に戻し、静かに一礼した。

この村は、もはや誰の地図にも載らない。けれど、確かにここに存在していたのだ。

バイクにまたがり、こむぎは山を下り始めた。いつの間にか空は晴れ、霧はゆっくりと溶けて消えていく。

東北に残された最後の謎が、こむぎを待っている。

田代峠――UFOの目撃が相次ぐ不思議な空の場所へと。

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